■ ここは椎根の石屋根ですね。左がいちばん上流にあったものですが今は瓦になっています。(hatiyyu)
■ 父が学校の教師だったので、たしか、厳原町瀬というところの石屋根だとおもいます。(T.K)
■ 豆酘の臨海道路の横に一列に、並んでいる。倉庫は、全部石屋根でした。どんな交渉がなされたか知りませんが、瓦と交換されたとききました。その石屋根の石は、厳原のビジターセンターの玄関前の石畳だと聞きました。それか、本当なら、豆酘の財産を、なくした気がします。(豆酘の漁師)
■ 石屋根倉庫については、戦後に博物館員や古物商などが村々をまわって買収したという話を聞いたことがあります。「新品の瓦の屋根にしてあげますから」とかなんとか。石屋根は管理が大変なので、みんな飛びついたのかも知れませんね。九州の肥後民家村、湯布院民芸村などには、対馬の石屋根倉庫がそのまま移築・展示されているそうです(西@管理人)
■ 豆酘の屋根石は、多久頭魂神社鳥居前80メートル付近を、堀り起こすと、あるそうです。ほしい方は、重機等で、地主の許可を、得て掘ってみませんか。たくさんあると思いますよ。豆酘の屋根石は、島山の石では、ありません。地主さんの、床の間には、堀り起こした、綺麗な石が飾ってありますよ。(豆酘の漁師)
■ 石屋根の石の出どころについて、記述が城田吉六氏の「対馬の庶民誌」の68〜70ページに散見されます。(三浦 轍司)
■ 厳原中学校と書かれた門が出来たのが1963年ごろでした。これは、それ以前ということになります。左側の幼稚園の桜組の教室の屋根、中央奥には拘置所の塀と建物の屋根。屋根が少し高くなっている建物は、拘置所の中のホールで、歌手や漫才の慰問が行われていて、小学生の頃、友人のお父さんが、「入ってみていかんね〜」と誘ってくれたものです。(三浦 轍司)
■ 私もこの鐘楼跡にはよく登って遊びました。ふつうの桜の木になる黒くて酸っぱいサクランボをたべて,口の中真っ黒にしていました。手前の空き地は,厳中のバレーコートがありましたよね。友達が9人制バレーを頑張ってました。(杉 憲)
■これは、清水が丘のプールのとこですね。小さい頃上に登ってあそんでました。(h)
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