対馬古写真図鑑

国境の島・対馬(つしま)に関する古い写真を収めたサイトです。
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対馬古写真図鑑 (写真No.130)
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■写っている式台に延びる敷石の角度が決めてです。門の敷石は御影石だったのに、この式台までの石は赤い石でした。(三浦 轍司)
対馬古写真図鑑 (写真No.128)
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■ 現在の裁判所の所です。現在の裁判所は,その昔,旧日新館の屋敷があったところです。裁判所が建て変わる前は,旧日新館の姿を強く残した裁判所だったのです。道路を挟んで左側に見えるのは,国道沿いの酒屋さんの近くです。(HK)

対馬古写真図鑑 (写真No.127)
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■ 公民館講座「対馬歴史散策」で勉強した際、現在のやぐら門2階で同じ写真を見ました。1817年再建され1917年(大正8年)に撤去されたそうです。(おうちゃん)
■ 金石城ですね。小学校の時に教室とかにあった冊子に載ってました。(h)
対馬古写真図鑑 (写真No.126)
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■ 旧厳原町役場佐須支所だと思います。(ひみつ)
対馬古写真図鑑 (写真No.125)
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■ ここは椎根の石屋根ですね。左がいちばん上流にあったものですが今は瓦になっています。(hatiyyu)
■ 父が学校の教師だったので、たしか、厳原町瀬というところの石屋根だとおもいます。(T.K)
■ 豆酘の臨海道路の横に一列に、並んでいる。倉庫は、全部石屋根でした。どんな交渉がなされたか知りませんが、瓦と交換されたとききました。その石屋根の石は、厳原のビジターセンターの玄関前の石畳だと聞きました。それか、本当なら、豆酘の財産を、なくした気がします。(豆酘の漁師)
■ 石屋根倉庫については、戦後に博物館員や古物商などが村々をまわって買収したという話を聞いたことがあります。「新品の瓦の屋根にしてあげますから」とかなんとか。石屋根は管理が大変なので、みんな飛びついたのかも知れませんね。九州の肥後民家村、湯布院民芸村などには、対馬の石屋根倉庫がそのまま移築・展示されているそうです(西@管理人)
■ 豆酘の屋根石は、多久頭魂神社鳥居前80メートル付近を、堀り起こすと、あるそうです。ほしい方は、重機等で、地主の許可を、得て掘ってみませんか。たくさんあると思いますよ。豆酘の屋根石は、島山の石では、ありません。地主さんの、床の間には、堀り起こした、綺麗な石が飾ってありますよ。(豆酘の漁師)
■ 石屋根の石の出どころについて、記述が城田吉六氏の「対馬の庶民誌」の68〜70ページに散見されます。(三浦 轍司)
対馬古写真図鑑 (写真No.124)
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■ じいちゃんの家? 私の母方の実家だと思います。昔、郵便局の前は元々森の家が建っていたと言っているのですが、ココがそうなのかなぁ。(森の子孫)
■ ながつぐは暢孫とかきます。ご子孫は福岡に住んでいて事業をしています。私の友人で時々お会いします(HAN)
■ ながつぐ(ややこしくて変換してません)の屋敷の長屋門です。舗装で道路が高くなってしまったこと、門の前が側だったことでこんなミスマッチなガードレールがついています。(三浦 轍司)
■おそらく、今の厳原郵便局前の写真です。大きな武家屋敷の門がありました。現在は取り壊しており、発掘調査が行われています。(小僧)
対馬古写真図鑑 (写真No.123)
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■ 厳原中学校と書かれた門が出来たのが1963年ごろでした。これは、それ以前ということになります。左側の幼稚園の桜組の教室の屋根、中央奥には拘置所の塀と建物の屋根。屋根が少し高くなっている建物は、拘置所の中のホールで、歌手や漫才の慰問が行われていて、小学生の頃、友人のお父さんが、「入ってみていかんね〜」と誘ってくれたものです。(三浦 轍司)
■ 私もこの鐘楼跡にはよく登って遊びました。ふつうの桜の木になる黒くて酸っぱいサクランボをたべて,口の中真っ黒にしていました。手前の空き地は,厳中のバレーコートがありましたよね。友達が9人制バレーを頑張ってました。(杉 憲)
■これは、清水が丘のプールのとこですね。小さい頃上に登ってあそんでました。(h)
対馬古写真図鑑 (写真No.121)
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