対馬古写真図鑑

国境の島・対馬(つしま)に関する古い写真を収めたサイトです。
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対馬古写真図鑑 (写真No.184)
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■ 私は、写真左のはしご段からさかさまにおちて、協立病院に母がおぶって駆け込んだと聞いてます。あの頃の母親達は強くて、そして、優しかったなあ。(kiyo)
■ 東川端通りをコンクリート舗装するたびに川に降りる事が出来なくなって、どこの家にあったのだろうと思えるような、木製の階段が吊るされました。そうやって、川端通りの表情が変化していったのですね。(三浦 轍司)
対馬古写真図鑑 (写真No.183)
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■ こんなにも広かったのですね。遊月橋から鳥居の手前までコンクリート舗装がされていないので昭和37年ごろまでの写真ということになりますね。(三浦 轍司)
対馬古写真図鑑 (写真No.182)
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■ 須賀建設と納富さんとの並びの、もう一つ北側のブロックの辺りからカメラを向けたのですね。ここは昭和32年の大火を免れた場所です。新築の白い二階家に学校の先生が昭和37年ごろに住んでおられました。測候所の建物の右側には、新築になった厳原小学校の建物が見えます。(三浦 轍司)
対馬古写真図鑑 (写真No.181)
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■ 写真右端にある三木さん宅の、久田石の石垣が懐かしいです。この場所が丸栄になる前は、木の塀と門があって中は昭和32年ごろ既に空き地でした。柳の木の向こう側は岸原染物屋が染物を水に晒すので、行き来しやすいように特になだらかでした。(三浦 轍司)
対馬古写真図鑑 (写真No.180)
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■ 時間からすると、神輿が帰還するのを待っているような、感じです。毎年担ぎにでた父は、握り飯と砂糖醤油に浸した裂きするめを持って、4時半頃に帰宅していました。(三浦 轍司)
対馬古写真図鑑 (写真No.179)
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■お祭りの時に相撲があったことを一度だけ覚えています。土俵の四隅に柱を立てて紅白の布で巻いてあったからです。写真左の瓦葺の屋根は八幡宮の倉庫。この写真は絵馬堂の右端の近くから撮られたのですね。(三浦 轍司)
対馬古写真図鑑 (写真No.177)
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■ たろさん、その通りですね。薬局の裕子ちゃんは今では女医さんです。kiyoさん一緒に走り回った年代ですかね?走り回って写真の右手に有った柳屋旅館の前のおいしい井戸水を飲んだり副島のおばあちゃんの店の山盛りのカキ氷を食べたり。(フォルツァ)
■ 一ツ橋ですかね? 左手 副島時計店。 右手 富田薬局 かなぁ〜? 港に向かって写していますよね?(たろー)
■ すずらん灯が懐かしいです。この頃の子供たちは皆元気に川端を走り回って遊んでいました。(kiyo)
■ 一ツ橋の親柱には「柳橋」と刻んだものと、「やなぎばし」と二種類あり一ツ橋とは書いてありませんでした。橋が名前を二つ持っていたのでしょうか。頭を隠した人物のところは岸原の染物屋があった辺りです。笠淵にも「柳橋」があり、古い柳の木がありました。(三浦 轍司)
対馬古写真図鑑 (写真No.176) 
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■ 影の形からお昼くらいですが、神輿が二基写っています。訥庵先生の碑の前辺りから撮影したものですね。水晶の形の白亜の慰霊碑が出来たのが昭和34年だったように思います。慰霊碑の左側は倉庫。それらの向うに電気会社と言っていた九電が写りこんでいます。(三浦 轍司)
対馬古写真図鑑 (写真No.175)
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■ 楼門をくぐって秋の祭礼の拝殿を見たところで、これは現在とほとんど変わりがなく、厳原中学校のセーラー服の当時の制服姿です。(三浦 轍司)

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