■ 手許に1957年10月25日発行の「岩波写真文庫 242 長崎県 −新風土記ー」があるのですが、その4ページ目の写真と船の配置が全く同一で、本は下、六分の一ほどがカットされています。(三浦 轍司)
■ ここは豆酘ですね!昭和30年以前の豆酘の写真だと思います。(豆酘の漁師)
■ 「2万5千分の1」地図で確認すると、地形・道路・海岸線がぴったりと合います。道路は今とほとんど変わっていませんが、漁港施設(防波堤・護岸・繋留場など)が大きく様変わりしています。(岩魚)
■ 多分、移転前。あくまで豆酘と仮定しての話ですが、他の写真で”豆酘中の運動会ですね。いつ頃でしょう?”と書いてあった校舎は現存してて、厳原方面から下った坂の右側にあるはずです。(旧校舎?1年以上行ってないけど)。
この写真で言うと、現在は、左側・海岸よりの森(?)のあたりには鉄筋の小学校が建っていて、駐車場になるかな?中学校はもっと左の、写真には写らないはみ出した位置にあるのではないでしょうか?川の河口近くの道路と交差するあたりの、NTT豆酘局もその向かいの釣具屋さんもなく、田んぼのままなので、それ以前の写真かも?しかし、清水丘厳中の写真もそうだけど、これってどこから撮ってる?航空写真かな?(Jan)
■ 確かに川や交差点の位置関係ははまってますね。ただ気になる点が…。中学校が写ってないみたいで…。(撮影時、中学校があったかどうかはわかりませんが)(h)
■ 街の真ん中の交差点や川の位置、路地の感じが豆酘っぽい気がします。豆酘の人に見せてみたらどうでしょう?(JAN)
■ 集団就職に限らず就職、転勤シーズンの3月頃は毎日のようにこんな風景が見られましたし、盆、正月にも。たぶん飛行機が就航した頃まで?立亀岩の下には、お土産物店が並び、色とりどりの紙テープが軒先にたくさんぶらさげて売られていました。なつかしい・・・・(フォルツァ)
■ 対州丸の前は、大衆丸という船がいました。(フォルツァ)
■ この写真の船は、窓やテラスの形状から壱州丸だと思います。(kidgoat)
■ 集団就職で厳原港から旅立つ情景でしょうか。(田中 芳文)
■ 壱州丸(600t)が就航したのは昭和32年、対州丸(650t)が就航したのは昭和38年とのことなので、昭和32〜38年の間の写真なんでしょうね。集団就職が盛んなころでしょうか?(西@管理人)
■ 昭和37年?ここは豆酘中学校の近くではとの情報がありました けど?本当でしょうか? 屋根の上のお兄さん達を知ってる人はいませんか(pegasus)
■ 厳中の出身の方の情報によるとここは鶏知では?との事です(pegasus)
■ 中学時代の恩師が何人かいますネ。同級生もいるし後輩もいます。この町は?村は?何処でしょうか?この時代に映画館があったのは厳原か比田勝か。佐須奈には無かったような気がするけど 誰か場所の特定が出来る方・・・懐かしい一枚です。(pegasus)
■ 昭和35〜36年頃の中学校の全島大会ではないでしょうか?上県町のプラカ−ドの後ろにいるハンチング帽の先生に見覚えがあります。(sakenomi)
■ 「鉄砲安の生涯」の右側の幕は「猫が変じて虎になる」という映画です。これと前後して、「君恋し」という映画がかかったので私の中学時代です。昭和37年です。厳原では西川端の「公楽」が、夕方、女性の声で「街頭の皆様、こちらは公楽、公楽でございます」といって2本立て上映映画の解説をしていました。2週間上映するとフィルムが田舎回りをしたのです。(三浦 轍司)
■ 確か36年は比田勝で中学校の全島大会が在ったと思います。私が中2の時球技大会でバレ−ボ−ル選手で出ましたので・・。確か陸上競技と球技大会を上島と下島で交互にやっていように記憶しています。55歳〜60歳位の方か学校関係の方なら記憶に在ると思います(sakenomi)
■ 36年、37年と近似値でほっとしました。
映画は半年以上も先くらいまで、こういう作品が製作されて配給されます、ということで、ポスターやチラシが映画館に張り出してありました。ですから、上映中でなくてもいろんな作品の名前が映画館にあふれていても不思議じゃないと思います。
私は、玄海シネマの横に住んでいたので、映画が大好きでそこで、この作品を見たのかもしれません。
シネマスコープという凹面の横に広がった画面で、勝新太郎扮する鉄砲安が、ロシアの皇太子を撃つ、というストーリーでした。記憶に色はついていないのでモノクロだったかもしれません。
36年の球技大会の日が判ればいいですね。(三浦 轍司)
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