対馬古写真図鑑

国境の島・対馬(つしま)に関する古い写真を収めたサイトです。
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対馬古写真図鑑 (写真No.60)
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■ 裁判所の式台辺りから門の南側を見たもの。(三浦 轍司)
対馬古写真図鑑 (写真No.59)
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■ 写真右の方から説明します。半分切れてるからわかりづらいけど、
右端のT字型の建物、新校舎。主に三年教室。右端と一番奥から出入りできた。(三年専用、一・二年は正面玄関のみ)
その左が旧校舎。戦時中、美津島の海軍か陸軍の兵舎として使っていたものを解体移転したものらしく、全て木造。木枠のガラス窓。かなりガタがきてて、隙間も多く傾いてたから、昭和51年夏休みに外壁につっかい棒をして補強された。その時は新校舎と旧校舎間は1・2階とも行き来できる渡り廊下ができてた。(どちらもこの写真には写っていない)
中央に廊下があり、両側に教室が並んでいた。建物二階左側が一年、右側が二年教室で階段は2ヶ所。一階は職員室や実習室。
その左、ちょっと引っ込んだ建物は実習棟。1階が技術室、2階が音楽室。その左が講堂。式典用。部活で剣道部、卓球部、体操部(52年に休部)狭かったがバスケット、バレーもできた。その前にあるのが心字池(旧藩主邸の鎌倉様式の庭園らしい)その裏に見えるのが万松院墓地(下から階段を登ったあたり。逃走防止か?有刺鉄線が張ってあったが、よく昼休みに抜け出してた)
その左が柔道場。手前、池の左にみえる細長い屋根は自転車置き場。そこからのびる道は「根性道路」と呼ばれ桜並木の下を運動部が走ってた。グラウンド内を走る内周、その外側(校舎前、根性道路)を回る外周、外に出て幼稚園の方からビジターセンターの向こう側の坂を登ってプチ峠を回ってくる外外周の三種のランニングコースがあった。
根性道路ワキの建物は体育倉庫、その手前に砂場と鉄棒。その手前にバスケットコートが縦に三面あった。一面二面の間のリングは両面ポスト(リングの後ろ側にもリングがある二面ブッダみたいなやつ。)で、影が写ってる。これが立ったのが昭和46・7年頃。
写真にもあとが残ってるが、雨が降るたびに川ができるグラウンドで、雨上がりはいつも石拾いだった。(JAN)
■ 清水が丘にあった時の厳原中学校じゃないですかね。(h)
対馬古写真図鑑 (写真No.58)
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■ 女学校を下りてきてすぐに右に曲がると大山さんというお宅がありました。その家の門で、阿須の一本杉の先のほうに在った黒門を移築したものと、聞いていました。(三浦 轍司)
対馬古写真図鑑 (写真No.57)
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■ 高麗門を進駐軍の中から撮ったものですね。(三浦 轍司)
対馬古写真図鑑 (写真No.56)
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■ 遠くに見える山は形状からして、曲の突端部にある「にぎり飯海岸」の山そのものですね。今の自衛隊の場所は大正時代から全く変わらないんですね。(スペインの蠅)
対馬古写真図鑑 (写真No.55)
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■ この電報電話局が出来たのが昭和31年ごろでした。アイアンスチールのサッシュが濃紺に塗られていました。板に書いたおまわりさんは同じ頃に小学校の西校舎の前にも登場しました。道路の舗装工事がお宮の前にかかったのは昭和33〜4年頃だったように覚えています。(三浦 轍司)
■ 今もある建物ですが、道路拡張で2Mほど削られるそうです。旧電電公社。現在のドコモや弁護士会が入ってる部分は新館で、屋上に巨大なアンテナが立っています。それができる前で、道路が未舗装の写真ですので年代特定は容易かも?ちなみに昭和45年にはすでにありました。エレベーターや4階建てのビルが珍しくてよく遊んでました。(JAN)
対馬古写真図鑑 (写真No.53)
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■ 昔のことです、この川沿いに、たぁ坊、しょう坊、まぁ坊、ひろ坊、ゆう坊、けん坊、たか坊、やす坊、・・・。えっちゃん、じゅんちゃん、ひろみちゃん、のりちゃん、ひろちゃん、ふみちゃん、・・・。らの、明るい笑い声が満ちあふれていた時代が有りました。(フォルツァ)
■ かすかに記憶が有ります。細いので、恐くて渡れなかった記憶が。右手側に、ひろみ食堂、飛田理髪店などが有った(後に電々公社が建てられた)頃?(フォルツァ)
■ 左手(西側)のコンクリートの壁は電電公社。南側は理髪店、食堂、小山舜輔先生の対馬病院の裏口、伊藤燃料店、昭和橋です。東側は与良郷宿と呼んでいました。(三浦 轍司)
■ 遊月橋から観る川端どおり。子どものころよく遊んだ場所です。一番手前の橋は板でできた橋で,渡るときぶわんぶわん揺れていたのを思い出します。現在はありません。向こうに見える橋は,丸栄スーパーの所の橋です。(HK)
対馬古写真図鑑 (写真No.52)
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■ 左手の大きな屋根は「光清寺」ですね(たろ)
■ 西の浜の埋め立てが始まる前ですね。昭和30年ごろはまだ埋め立てが始まっていませんでした。(三浦 轍司)
■ 今は久田と厳原港を結ぶ橋ができてますが、この石垣は手前にもあり、石垣を囲んで港がありますよね。この石垣をそれぞれ『外矢来(そとやらい)』『内矢来(うちやらい)』と呼んでいたそうです。防波堤のようなものでしょうか。それから、『内矢来』のそばに『漂民屋』という韓国人漂流民を介抱・宿泊させ、本国へ送還させるための施設があったようです。「国交が断絶した時代も変わることなく継続されていた」と立て看板に書いてありました。最近教えていただきました。(サミ)
対馬古写真図鑑 (写真No.51)
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■ 白い建物は豆酘漁協です。(豆酘の漁師)

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